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クイズノックで見かけたやつ。これなんだ?
守護要素にある「カー」「バー」などに日本語訳をつけているが、実際は、対応する概念を一言で表すのは難しい。
まずは古代エジプト人が考えた、人格を構成する五大要素というものについて理解する必要があるかと思う。
言ってみれば、中国の思想で言うとこの「三魂七魄」みたいなモノで、古代エジプトでの”人間という生命の存在”は、「肉体と魂」という二元管理ではないのである。
変な漢字ワールド
ってなに
英語で情報収集する必要がありそう
「災厄の年」が社会的外傷として記憶されるためには、どういう形にせよこの「環状島」の構造が必要となる。なんらかの集団的な布置として、「語り得ない当事者」集団と、それを取り巻く「饒舌な非当事者」集団という対比が重要な意味を持つのだ。
少なくとも報道を見る限りでは、「自分が感染させてしまったかも」という後悔はあり得ても、「なぜ私だけが助かったのか」という遺族の言葉はあまり見当たらない(もちろん罪悪感があってしかるべき、という意味ではない)。
この推測が事実であるとして、これは事故や天災の死が「潜在性の問題」であるのに対し、疫病による死が「可能性の問題」であるためではないか。
「潜在性の問題」とは、誰にも死の可能性が平等に潜在していて、いつ自分が死んでもおかしくなかったのに、たまたまあの人だけが死んでしまった、という状況である。空襲や原爆の死はこちらに近い。いっぽう感染症が「可能性の問題」に近いのは、「死の可能性」が平等ではないからだ。年齢や健康状態、感染機会などを総合すると、自分よりもあの人のほうが死ぬ確率が高かった。感染症はそうした推論を可能にする。死は平等である場合に生存者の罪悪感をもたらしやすく、そうではない場合には罪悪感につながりにくいのではないか。
確率的な悲惨→卒論に戻ってきた
この本普通に枠組みとして読んでおくべきな気がする。
大規模な災厄は、人間の時間意識を変える。
そのことを最初に意識したのは9年前、東日本大震災の直後だった。震災は時間の流れを分断し複線化した。列島は複数の時制へと引き裂かれた。目前の復興に集中せざるを得ない瓦礫の中の時間。錯綜する情報や半減期というフレームの中で宙吊りにされた「原発」の時間。避難所の時間、無人化した村の時間、液状化の時間…。
この時間意識のありようを、私は木村敏の所説にしたがい3つに分類した(木村敏『時間と自己』中公新書)。
コロナ時計は、クロノス時間ではない。それはイベントと統計、不安とパニックによって駆動される、単純化されたカイロス時間だ。コロナ時計への強制同期は、私を含む多くの人の「時間線の複数性」を一気に縮減してしまった。それを象徴する言葉が、あの「不要不急」だ。やむをえないこととはいえ、「不要不急」の自粛こそが、時間線を単純化した最大の要因であろう。その結果、記憶の遠近法が崩れはじめ、ふやけた現在が「今|今|今|…」と不連続に連なり続けている。
(中略)
ここまで書いて、ようやく気づいた。なんのことはない、私自身がずっと「解離」していたのだ。コロナ時計に同期した生活を取り巻くゼリー状にふやけた外界、過ぎ去る日々のとらえどころのなさ、時間感覚の曖昧さ、無力感というより脱力感、奇妙な現実感の希薄さ。先の見通せない仮住まいの日々が、時間の感覚を溶解させる。これは確かに離人感だ。通常の離人感と異なるのは、この感覚が自分だけでなく、多くの人に共有されているに違いないという確信がある点だろう。
この時間の不連続性は、現実感の希薄化をももたらす。言い換えるなら、日常のリアリティを支えていたのも、重畳し輻輳する無数のカイロス時間の束なのではないだろうか。
解離とは意識の狭窄だ。狭窄した意識はしばしば「退行」につながる。より未熟な意識状態に陥ることは、認知の変容にもつながるだろう。典型的には相手を敵か味方に分類したがる白黒思考と、自分の苛立ちを相手からの攻撃と取り違える投影性同一視だ。いずれもネット環境下で増幅されやすい感情であり、このところネット上がいつにも増して殺伐として見えるのはこのためもあろう。この点については機会を改めて検討したい。
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日光の当たるところに置いておくと危ないやつ
基本的な概念理解用。深追いするつもりではない
- プロジェクトマネジメント方式の標準化
- プロジェクトマネジメントに関する研修など人材開発
- プロジェクトマネジメント業務の支援
- プロジェクト間のリソースやコストの各種調整
- 個別企業に適応したプロジェクト環境の整備
- その他付随するプロジェクト関連管理業務
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